昭和53年08月31日 朝の御理解



 御理解 第69節
 『信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。』

 みやすう信心をするがよいと言うて、わがまま気ままでよいというのではないんですよね。いつも申しますように、自動車の運転免許をとった人達に「自動車は、運転は大変難しいでしょうね」と言や「いや、そんな難しい事じゃないですよ。誰でも稽古すりゃできますよ」と「しかも自分の手のように足のように車を動かす事が出来ますよ」とみんな言われるだろうと思うです。私は免許を私にとってはだから難しいわけ。
 それは稽古をしないから難しいのであってね、だから信心も同じです。信心も稽古をさしてもろうて、ここまではというところを、例えば今日の御理解で申しますと、いわば「三年五年では、迷いやすい」とこう仰せられます。だから迷わんですむところまでは信心の稽古をしっかりさしてもらわにゃいかん。神様が信じられない、神様が分からないから、言うならば実意の欠けた横着な、わがままな生活を平気でする。
 それでいて「金光様」というて、いくらおすがりしても、おかげはよし頂いても、金光教祖が仰るように「御神徳は誰でも受けられる」と仰る、その誰でも受けられる御神徳でも受けられないことになるのです。だから三年五年では迷い、十年とと仰るから、やはり十年ぐらいはみっちり本気で信心、言うなら自動車運転の免許をとるためにね。実地の上にも、学科の上にも勉強をして、そしてそれが、やはり自分が自由自在に車を動かせるようになるまでは勉強だ。いわゆる三年五年では、迷いやすい。
 十年と続いたら」とこう仰る。結局迷わんですむ、神様が絶対だと分からせて頂くところまでは、私は辛抱しなきゃいけないと思う。勉強しなければいけないと言う事。あとはもう稽古、一生稽古ですけれども、楽しゅう有り難うできるわけです。だから合楽理念もそういう信心をひとつの基礎にして、そこから言うならば合楽理念の行であり、合楽理念に基づく生き方であり。そして人間の幸福の条件の全てがたろうて来る様なね、天地との交流、天地のリズムに乗っての信心生活が出来る様になるのです。
 だから合楽理念というても、やっぱりそこん所のひとつの基礎とか、基盤というものの上に立っての合楽理念なんです。そこでなら私が様々におかげを受けられない、苦しいところを通らせて頂く時に、まあ様々な修行もしてみました。もう先覚、先輩の方達がしたといわれるような修行は色々にいたしてみましたけれども、おかげは頂かれなかった。そこで私どもは、言うならそういうね、火の行水の行と言った様な行ではなくて、先覚が「これは自分らの信心の芯だ」と言われておられるように。
 桂松平先生が「事神様の事に限っては、前には進んでも後には退かん」と仰る。そういう信心が私は信心の中にいつも生き生きとしておったと思うんです。言うならば「一にも神様、二にも神様、三にも神様だよ」という生き方がそれなんです。次には様々な問題、事柄の中に、もうそれこそ福岡の初代の信心の芯と言われる「馬鹿とあほうで道を開け」と四神様から教えを受けられて、その「馬鹿とあほうで道を開く」と言う事が福岡の信心の、まあ言うなら芯のように言われてまいりましたから。
 この事をまあそれこそ泣き泣きでも、歯痒いと思いながらも腹が立ってもじっと辛抱して、まあここが馬鹿にならなんとこじゃろう、ここがあほにならなんとこじゃろうと、ほんとの馬鹿とあほうになる、なって始めからなれないのですけれども、段々稽古さして頂いとるうちに、腹が立たん様になり、情けないと思わん様になり、むしろお礼が言えれる様になって、言うなら段々自分の心を豊かに大きく頂けれる様になって来た。
 なるほど、久留米の初代が、信心辛抱と言う事をもってです、ご自身の信心の芯になさったように、もうそれこそ歯を食いしばって辛抱しなければならない時もあったけれども、段々おかげで、辛抱すると言う事すらも、さほどにただ有り難いものとなってきた。久留米の初代の信心辛抱と言う事が研修の度んに、久留米支部では研修されるわけですけれども、もう久留米の初代の場合は、「信心辛抱の徳」というものが身に付いておった。ですからもう辛抱じゃない。もう当たり前。むしろ有り難い。
 小倉の師匠であるところの桂先生がある時に、石橋先生にね、それこそお弟子さんのきら星のような先生方がずらり並んで、さあ今から大祭後のご直会が始まろうかという時に、石橋先生に向かってから「石橋さん、あんた方の息子は馬鹿じゃな」と仰ったっちゅう。その時にもうそれこそ間髪を入れず石橋先生が仰っておられることは、「親先生、おかげで信心ができます」と仰った。
 「石橋さんでかした」と言うて、一番にお盃を奉げたというお話が残っておりますように、もうすでに石橋先生の場合にはその、「辛抱せんならん」と言った様な、「ここはぐっと堪えとかんなん」てなことはなくてね、もう「そのおかげで親先生、信心ができます」と言う様な素晴らしいところに、もう高められておられた。信心辛抱のもうすでに徳を受けておられたと言う事が言えます。
 いかに信心辛抱を研修してもです、いわゆる「信心辛抱の徳」と思われるまでに高められていかなければ、信心辛抱の値打ちはありません。だから私の信心はね、そういうなら石橋先生、吉木先生、桂先生、又は善導寺の荒巻弓次郎先生と言った様な信心の、その芯所というものが、私の信心の基盤になっておるんだと言う事ですね。基礎になっておる。そこに打ち立てられたところの合楽理念なんです。
 だからここをいわば行じずして、合楽理念ではないと言う事が分かります。理屈の上では「はあ成程合楽理念はやっぱそうじゃろう。助かりの理念だろう」と言うても分かってもです、そういう一つの基礎的なものができずしておかげの頂けれる筈はありません。この頃一週間も前でしたでしょうか。家の修行生の方達にね、その事を話させて貰った。だから結局信心修行を合楽でさして貰うならば、今合楽ではねもう本気で修行しようと思うて入ってきて、合楽では何も難しい事はいっちょんないとです。
 真面目に別にね、肉体的なきつい修行があるわけじゃなし、ただ自分の好きな信心を一生懸命勉強するだけ。それもそのずっと勉強せんならんと言う事じゃない。もう「ほんとに信心の勉強をしよう」という、本気で好きで勉強に来ておる人ならば、それこそ楽しゅう有り難うできるのが合楽じゃなかろうかとさえ思わしてもらいます。だから言うならば、合楽理念の行者というふうに言われるけれども、その合楽理念をマスターしたら行者ということはない、それ以前のものが行なんだ。
 基礎を創るまでが。そこでなら前には進んでも後には進まん不退転の信心を身に付けよという、もう信心そのことだけに言うならば専念しておるのですから、生活と言う様なものが掛ってるのじゃないのですから。火の行水の行せろと言うのじゃないのですから。ああせろ、こうせろと言う事じゃないのですから。自分でその基礎になるような信心をです、自分というものを、まあ言うならば窮屈な場において。
 言うならばこの窮屈な御結界、畳半畳の中に、「わが心は世界にある」と言う様な大きな心を開くことができる自分の心は、世界各国を飛び回る事が出来る心の中で。と言う程しのおかげを頂くために、自分をぎりぎり言うならば窮屈な所へおいての信心修行をなさらなきゃいけませんよ。ひとつ私が過去において、箇条書きの行「ああはしません。こうはしません」と言った様な、又はしても何にならない事です。
 それを例えばシダゴダにしておったと言う事をひとつの箇条書きにまとめて、神様にお誓いをした話をして、「あんた方もこれを自分で書いてもっていらっしゃい」と言うてしておりますから、みんなその、箇条書きに書いて持ってきておる。その中の例えばこれは昨日出した人のですから、まあ名前は申しませんけれども、書いてあることをこれは「こん位の事は、そればってんできにゃできんね、合楽で修行するなら」と言うた事でした。一番初めから読みますと、親神様楽はしません。
 朝の時間を大切にします。
 一、雑誌新聞は読みません。ラジオ・テレビは見ません。聞きません。
 一、大祓信行は欠かしません。
 一、座行に取り組みます。
 一、外出はしません。
 一、日中横にはなりません。
 一、お金は使いません。」ということが、それぞれまあ、そんなまだもっと難しいことを約束しておる人もたくさんあります。
 けれども今ここで読んだこの位な事は合楽で修行するなら、せにゃでけんです。そのためにここに修行に来てるんですから。はあ合楽はもう自分の酒の飲み行こごたる時には、酒飲みにも行かれる。出ろうと思やわが勝手にわがままに出らる。さあならここに修行でんくるという人っちゃ、そんな金のあるはずはありません。ここで七千円のお小遣いを頂くだけじゃ。けれども金は使いません。だから全部それをお供えする人もありますし、この人なんかは「金は使いません」と言うとるから全部お供えしようと。
 使うまいというたら金一銭でんいらんとですよここは。衣食住何もかにもが与えられるとですから。歯磨き粉ぐらい石鹸ぐらい要る。それはあんた塩ででもよかっじゃけん歯磨きは。石鹸なんかはちゃんともう供え付けであるとじゃから。もう一銭でも金は使わんでいいとです。親戚の人達がそのまあ差し入れをしたり、お金をやったりするとだけが、もういつも困った結果になるなっておるです。
 言うならその業を破るですみんなが。破るとやっぱりその、それにその朱に染まれば赤くなるで、赤くなって行く弱い人達もやっぱあるくらいです。今五十人からの修行生がおりますから、誰がどこでどういうことし取るかいっちょん分からんです、私としては。けれどもそういう心掛けでは、なら信心これはね、修行生だけのことじゃありませんよ。ここで合楽理念なら合楽理念をほんとに自分のものにして、言うなら合楽理念で言われる「人間の幸福のすべて」がです。
 楽しゅう有り難ういけれるような生き方をするためにはです、みなさんとてもそうでしょうもん。「朝参りだけは絶対にします」と。自分の心の中に誓っておられるいろんなことがあろうと思うんです。でそれがです、でけんから人間らしくないと言う事は絶対ないのです、合楽の場合は。三井教会の初代の修行。「垢離を積むな、垢離を積ますな、身を慎め」となかなかこれは難しい。自分は垢離を積まんように馬鹿とあほうでいこうと思いよるけれども、その相手が垢離を積むならどうこうされん。
 やっぱそげな人がおりますよ。合楽がどんどん繁盛しよると、腹が立ってこたえんと言うて垢離積むとがおるとじゃから。だからそげんとに「垢離を積みなさんな。積みなさんな」ちゅうてさろくわけにはいかん。だから積ませんと言う事は難しいです。ですから結局「垢離を積むな、垢離を積ますな、身を慎め」と仰るから、せめてこの身を慎むと言う所だけには焦点を置かなければならない。これは私が何十年間心にかけて来た事でございます。だからこの「身を慎む」と
 。慎みのない生き方が人間らしい生き方と言う事じゃないです。慎みながら人間らしい、真の人間らしい生き方というものが身に付いてくるものでなからなければならん。私は、合楽理念の基礎、基盤というのはね、そう言う様なものがひとつ基盤となって、そして、合楽理念だと言う事になります。だからね信心が好かん人は難しいです。けれどもんなら黒衣のひとつも着せて頂くと言う事をです、お道の教師としてのお取立てを頂きたいというごたる願いを持っておる人ならです。
 もうここに今申しました、この方が出しておるこの位の事ならば、当然の事当たり前の事としてできんはずはない、いやそうすることが有り難くなってこにゃならんはずです。その上に立つところの合楽理念です。信心はみやすいものと仰せられておられますけれども、「三年五年では、まだ迷いやすい」と仰せられる。だからその迷いがなくなるまでの信心修行というものは、表行言うならば火の行水の行はせんでもです、自分の心の上に誓わせて頂く「信心さして頂いておってこんな事はしちゃならん。」
 と言った様な事はです、自分の心の中にしっかり守らして頂く位な信心を基礎に、自分のものに成る為に矢張り、三年五年の信心言うなら時間が掛るんじゃないかとこう思います。三年五年の言うならば信心がまだ迷いやすい。十年経っても二十年経っても迷いやすいと言った様な事ではいけんのです。迷わんですむ。どんな場合であっても迷わんですむ、そこに「われながらわが心が祀れる」様なおかげに成って来るんです。
 はあこんな場合であっても、グラグラせんですむ、迷わんですむと言う事、それこそ自分の心が自分で拝みたいように、わが心がまつれれるようになる。その先にです成程、信心はみやすいもんだな。もう楽しいもんだな、有り難いもんだなと。もうほんとにこのリズムに乗って行くと言う事は愉快だな、と言う事にまでなってくるんです。ただみやすいただ楽しい、ただ有り難いというだけじゃなくて、そういうなら私の合楽理念が生まれるまでには、そういうひとつの、表行は致しませんけれども。
 信心をほんとに極めようとするためには、自分というものをある意味においては、窮屈な、言うならばここにも書いております、この先生が書いておりますように、「楽はしません。楽はさせて頂くのだ」と言う所に素晴らしさがあるのです。どうぞ皆さん信心がみやすう感じられるところまで、おかげを頂いた時初めて、迷いがなくなった時であり、われながらわが心がまつれれる時だというふうに思います。
   どうぞ。